ブルーローズ ~私が死んだ理由~
 その日はちょうど温子も来ており、森君は見慣れぬ2人に興味津々といった感じで、私には逆に声をかけにくい様子だった。祖母は「足が悪くて座れない」とイスを運ばせると、私が用意した弁当には手をつけず、自分で持ってきた赤飯やら豆を摘みながら、「ゴハンが柔らか過ぎる」だの「ビールがない」だの言って、私の作った弁当に人前でケチをつける。
 森君はそんな祖母に夢中で、気管支の弱い私の横で祖母はタバコをぷかぷか吸いながら、得意げに孫の過去を語り始める。幼い頃、「自転車が欲しい」と何度も勤務先に電話した事、七五三の7才の祝いで着たワンピースは通常なら6年生が着るサイズだった事、「2階が欲しい」と言うから作ってやれば、「ベランダ付きが欲しかった。作り直せる?」と言われて困った事、中学生の頃、文芸部の文集で祖母を『うるさいオババ』、母を『トドの昼寝』と題して詩に書いた事…などを、面白おかしく、時には大袈裟に、嫌がる本人の前で延々と話し続ける。
 6年生で大人用Mサイズを着ていた私が、7才で6年生用のワンピースを着るなど、あり得るだろうか?もし、戦前の子供サイズで計算してるなら、それが嘘でなくても周りの人は誤解する。現に、祖母の大袈裟な表現が“人前で食べれない”に発展した実績があるではないか。
 帰宅した祖母は今度は森君の悪口を言いだし、私は私で温子に不満の手紙を書いた。その手紙を送る前に先に温子からの手紙が届き、あの場で彼女だけは私の気持ちを理解してくれていたと知った。
 それでも、手紙の宗教的な言葉は全体の8割を占める程になり、私が期待するような返事はほとんど目にする事がなくなった。それは正に、中学時代の峯山との交換日記そのもので、私は温子に当時の日記を見せてみようと考えた。予め、峯山とは考え方が合わなかった事、彼に無理して意見を合わせていた事を伝え、今の私も全く同じ事をしていると彼女が気付くかどうか、試したかった。
 だが、温子がその意味に気付く事はなく、日記は彼女の助言でフリースクールに寄贈する事が決まり、「当時の心境を書いた解説書を付けたらどうか?」の意見に、達筆な温子に清書を依頼。
 また、この日記を読んだ石原から、私が中学を卒業後、峯山らしき男が学年主任に昇進したと聞かされる。
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