forget-me-not
あんまりにも桜の甘ったるいにおいが全身をつつむものだから、そろそろ辟易してきたころだった。その情景は文句なしに美しかったけれど、そのころの私はその甘さに酔いしれるということを、知らなかった。
「――……っ、」
それは一瞬の出来事だった。
ザッと風が吹いた拍子に私は顔をあげた。
(…………。)
通っていた高校は大学付属で、桜並木の途中に大学の正門があった。
その門の上、正確に言うと赤レンガの上に、だ。童話にでてくるハンプティ・ダンプティさながらに足をぶらぶらと揺らしながら、その人は座っていた。
「よ、」
なにが楽しいんだか知らないけれど、にこにこと幸せそうな笑みを浮かべてこちらを見下ろしている。両脇のレンガの上に手を置いて、何をするわけでもなく。
(…HRで言ってた不審者かな)
私はしばらく仏頂面でそのなんとも奇怪な光景を見上げながら、そんなことを思った。
その人がハンプティ…以下省略。と違うのは、人間の若い痩せた男であること。それから水色のストライプシャツにベージュのズボンを合わせた、そこそこ爽やかな風采であること。
それから、メガネの奥の瞳が優しそうに笑っていること、くらいだった。
「よ、」
男は再度にこにこしながら声をかけてきた。誰にだろう。認めたくはないが私にだ。