青騒のフォトグラフ Vol.2 ―夜嵐の不良狩り―
【愉快爽快痛快・携帯講座】
早ければ小学生からでも持てる携帯講座の時間を設けてみよう。
ぼくは塾に通う関係で中三から携帯を持ち始めたけれど、それはそれは便利な機具だと思うよ。
携帯ひとつあれば電話、電子メール、インターネット、ゲームに写真、なんだってできるからね。
音楽だってダウンロードすれば聴けちゃうし、SNSというシステムを利用すればデジタルという架空の世界で遠距離の人間とも交流できる。
それが延長してできあがったサイトが出会い系サイトだったりするわけなんだけど…、なんか色々問題もあったりするわけだけど、とにかく携帯は便利だよ超便利。
瞬時に情報を入手することができるしね。
これからの携帯の最先端を歩むのはスマートフォンだって言われているくらい、便利も便利さ。
世はまさに情報化社会。このフレーズがぴったりだね。
けれど情報化が進めば進むほど個々人の直接交流網が断たれる。そうは思わないかい?
……え? 分かりにくい?
ふふっ、そうだね。
じゃあ噛み砕いて説明しよう。
例えば、友達が体調を崩したとする。
一昔前は固定電話から直接相手に電話をしたり、時に家に赴いて相手の状態を知ろうとする。
でも今はメールのひとつで済まされる時代さ。
『大丈夫?』と簡単にメールをしてみる。
返信がない。
具合が悪いんだと判断。
電話等々の連絡を控え、今日は休ませようと結論付けるわけだ。
ほら、もう直接本人とコンタクトを取ろうとしなくなるだろ?
メールって怖いと思わないかい?
文面が出るだけで本人が本当にメールしたって確証はない。
もしかしたら本人じゃない誰かがメールをしたって可能性もあるじゃないか。勘ぐり過ぎ?
いやいや本当に本人がメールを打ったとは限らないのは確かだろ?
具を通してその様子を見ていたわけじゃあるまいし。
手紙だったら代筆ってわりと分かるもんだよ。
筆跡って個々人に癖が出るからね。
でもメールは違う。
誰が打っても同じ字体が表記される。
本人になりすまそうと思えば幾らだってできるもんさ。
どうして人間は単純なんだろうね。
簡単にメールの送信相手を本人だと信じられるなんて。