彼岸と此岸の狭間にて
丸屋は呉服を商っているとともに金融業も営んでいた。                       
その主人の『佐衛門(さえもん)』は50代の白髪で中肉中背、人当たりのよさそうな感じがした。                               
「紫馬様は下戸だそうで…」                       
佐衛門が徳利を手に葵の所にやって来る。

「面目ない次第です」              
「まあ、人それぞれ好き嫌いがありますから…まさか女子(おなご)も『下戸』ではありますまい!?」                
「いえ、そちらは頻(すこぶ)る『上戸』です」              
「これは『一本』取られました!!あはははっ、ではごゆるりと…」                  

佐衛門は葵の席を後にすると茂助の傍に座り込んで何やら話し込んでいた。                                                                             




宴も二時間程続き盛り上がっている中、葵は座を外して廁に向かう。と、斜向かいの廊下で佐衛門が誰かと話しているのに気付く。                  
(誰と話しているんだろう?暗くてよく見えないや!)                       
気にせず廁に入ろうとした瞬間、雲間に隠れていた月が姿を表し、もう一方の男の顔を照らし出す。               
(あれ、どこかで見た顔!?……『土門』!!『土門重吉郎』じゃないか!?)            
葵は姿を見られては『まずい』と思って咄嗟に廁に入り込む。                               
(こんな所で何をやっているんだ!?そもそも、山中殿と一緒に要人の警護に当たっているはずでは!?それとも、まだ仕事が始まっていないのか?…いずれにしても山中殿が心配だ!)                

葵は明日にでも江戸に戻りたい気持ちを抑え切れずにいた。
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