黒の歌姫
「痛い! 何するのよ!」
 ソニアがもがいた。
「黙って口を閉じていろ!」
「なんですって?」
 ソニアはそれ以上言うことができなかった。その時、白樺の梢よりも高くなっていた水の壁が崩れるように大波となって打ち寄せたのだ。
 水の勢いに引張られそうになる。
 ソニアは必死でランダーにしがみついた。ランダーは歯を食いしばり、四肢に力を入れて耐えた。
 ソニアをこんなところで溺れ死にさせるわけにはいかない。
 約束したのだ。
 必ず護ると。
 大波は二度、三度と打ちつけてひいた。
 ランダーはしばらく、ソニアに覆い被さったままでいたが、それ以上、大波が押し寄せるふうでもないので体を起こした。ソニアは崩れるように座り込み、水にむせて咳き込んだ。
 湖水はまだ荒れてはいたが、とりあえず、大波の心配だけはしなくていいようだった。
 湖水の上では、水の精霊が放心したようにうつむいて立っていた。が、やがてゆっくりと目を上げて、ソニアとランダーを見た。
 思いつめたような険しい表情に、ランダーは剣を握りなおした。
「〈歌姫〉よ」
 水の精霊は激情を押さえきれずに叫んだ。
「〈歌姫〉よ、我を打ち殺してくれ!」
「そんなことはできないわ、水の神」
 ソニアは、ぬれてすっかりもつれてしまった黒髪をわずらわしそうにかきあげると、とまどったように言った。
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