マバユキクラヤミ
 やがて大まかな形が紙の上に現れた。アイがしゃがんで、子犬を抱えている。しかしアイが構図どおりの位置についたのは、ほぼデッサンが終わり、背景の桜の樹や東屋を描こうという頃だった。むしろ、アイがボクの描く絵にあわせるために待っていたのではないか、位のタイミングであった。
「出来上がったら見せてね。」
 ボクは夢中だった。アイの言葉にも一切応えず、一心に色鉛筆と絵筆を走らす。苦手だったはずの人物画なのに、ボクの指先からはアイを描きたい気持ちがほとばしり、画用紙に気迫の痕跡を残していく。誤解を恐れずに言うならば、アイをこの絵の中に閉じ込めたい、という気持ちだった。ボクの中で、アイの存在が唐突に、特別なものになっていた。
 画用紙だけを見つめて描く風景と人物、という、今までに無い作品が出来上がったのは、描き始めて10分も経たない頃だった。普段、浜辺の風景でも1枚平均15分からというところだから、早いほうに入るだろう。
「出来たよ、アイちゃん。ほら、」
 ボクは声を弾ませて顔を上げた。が、絵の構図どおりの風景に、アイの姿はなかった。
「やっぱりお兄ちゃんは絵がうまいんだ。」
 背後からアイの声が聞こえると同時に、ボクの肩に細い腕が絡まり、背中に柔らかな体温が覆い被さった。ボクの鼓動は大きく波打ち、呼吸は止まった。
「アイ、お兄ちゃんのこと、好き。もっと、あげちゃう。」
 歳不相応に意味深な言葉。アイの声は、幼いのに湿っていて、滑らかに粘る。ボクの耳に、アイの言葉と吐息が絡みつき、背徳的なときめきがボクをさいなんでいく。
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