Fahrenheit -華氏- Ⅱ
綾子はタバコの先に火を点けると、長々と煙を吐いた。
「あたしも昨日の夜知ったことだけど、あんた横浜支社の鴨志田監査役がこっちへ来てた事知ってた?」
鴨志田(カモシダ)監査役…って言や、緑川派の筆頭、緑川(副社長)の側近だ。
年に一度だけ開かれる重役会議で顔を合わせるだけで、それほど親しくはない。
定年間近のおっさんで、おっとりと気の優しそうな雰囲気だが、掴めない雰囲気とその笑顔の下で何かを企んでいそうで、正直…俺は苦手。
「その鴨志田監査役がどうした?」
「銀座の会席料理屋に、瓜生(ウリュウ)常務と入っていったって高野くんが言ってたわ。
あ、彼ね。瓜生常務付きの秘書なのよ」
「そんなことどうでもいい。瓜生常務……緑川派に寝返ったか」
瓜生常務は、神流の分家の一つに当たる親族で、古くから神流の補佐役だった。
俺はタバコを挟んだ指に少しだけ力を入れた。手摺りに手をつき、ベランダの向こうに広がる景色を見下ろした。
東京の街のせせこましい建物がぎっしりと詰まっている。中途半端な高さでは、あまり絶景とは言えない。
丁度俺の居る高さだ―――自分の立場にその景色を重ね、
俺は煙を吐いて綾子を見た。
「高野くんはそれほど会社の内部事情に詳しくないから、黙っていたらしいけどね。別に瓜生常務が料亭に出入りしてることなんて珍しいことじゃないし。
つい最近出た社内報で、監査役の顔を知ったぐらいだしね」
綾子の説明を淡々と聞き流しながら、俺はあらゆる可能性を考えていた。
「その続きを聞こうか?」
俺が先を促すと、綾子は口の端にちょっとだけ笑みを浮かべた。
「あんたもバカな二世じゃなかったわけね」
今は綾子の憎まれ口にも一々反応する気力がない。俺は黙ってその先の言葉を待った。
「その10分ほど後に
村木部長と―――二村くんも揃ってその料亭に入っていったらしいわ」