Fahrenheit -華氏- Ⅱ
流れるようなピアノの旋律は“別れの曲”と名づけるにはあまりにも美しいものだった。
でも俺たちの別れは―――全然美しいものではなかった。
「そっちが浮気して、おまけに俺から100万せしめて、それでもってお前金輪際お前の地元に近づくなって言ったよな。
俺は言われた通り横浜には行かなかったし、金もお前に手渡した。今更何の用だよ」
そう、俺は真咲に言われた通りにした。
あの時の俺はまだ学生で、100万という金は大金だった。バイトして貯めた金が一気に消えたってわけだ。
だけど正直、これ以上関わるのが嫌だったのだ。
「何の用?よくそんなことが言えるわね。あんたがあたしにしたことに比べれば100万も浮気も大したことないじゃない」
真咲はティーカップの柄をぎゅっと握って、俺を睨みつけてくる。
真咲の射るような視線は、この間道路越しで見た視線と同じものだった。
だけど俺もその視線を素直に受け入れられるほど寛容ではない。
「今更恨み言かよ。そんなことを言うためにわざわざ俺を呼び出したわけ?」
俺は苛々を押し隠さずに腕時計を見た。
時計の針は会社を出てからすでに20分ほど経っている。
その仕草をして火に油を注いだのは明らかだった。
「あたしはあんたを一生許さないわ。あたしにあんな酷い仕打ちをして、あんただけ幸せになるなんて許せない!」
真咲の言葉は呪いの言葉だ。
俺の中をぐるぐる出口のない迷路をいつだって彷徨っている。
「じゃ、俺にどうしろって言うんだよ!」
俺は怒鳴っていた。
真咲がどんなことを言ってきても、冷静に返そう―――そう思っていたのに、その誓いはあっけなく崩れた。
だけど真咲は俺の怒鳴り声にぴくりとも反応せずに、口元に余裕のある笑みを浮かべた。
その笑顔は楽しんでいるかのようにも思える。
「言ったでしょ。幸せになるなんて許さないって。
あたし見たの。空港であんたと一緒に居た柏木……?さんの姿を。
彼女、同じ社内だったのね。おまけに美人でやり手」