Fahrenheit -華氏- Ⅱ
その日の午後は特に問題もなく仕事を終えることができた。
だけどいつも通り仕事をしていても、真咲のことを考えると自然ため息が出る。
そんなことを繰り返していたから、佐々木からは、
「どうしたんですか?元気ないですけど」
と怪訝そうに突っ込みを入れられた。
「ちょっと疲れただけだ。昨日の風邪も残ってるみたいだし」
そう言って苦笑いで返したけど、佐々木はどこか納得のいってなさそうな顔をしていた。
そうして仕事を終えたのが夜の22時。
いつもより少しだけ早く仕事を引き上げると、俺は例のごとく少し前にあがった瑠華が待つバラキエル(近くのカフェ)まで車で迎えに行き、
彼女を拾うと、五反田にある小料理屋に向かった。
以前親父が贔屓にしていた小料理屋だ。店主一人が切り盛りしていて、規模もそれほど大きくないけど、出してくれる料理はどれも絶品で、きさくな江戸っ子店主のトークは面白い。
俺が何者か知りえているのに、彼は俺を特別扱いせず、時には友達のように、時に兄貴のような、そして時には父親のように俺に接してくれる。
家庭的な店は心が疲れているときのオアシスだ。
瑠華と一緒に藍色の暖簾がかかった戸をくぐると、カウンターが広がっていて、その奥には小さな座敷がある。
客はまばらで、座敷に四人組の会社帰りのサラリーマンたちがビールを飲みながら、くつろいでいた。
「へい!らっしゃい!」
白い白衣を着た店主が白い歯を出して、相変わらず元気のいい挨拶で出迎えてくれた。