Fahrenheit -華氏- Ⅱ
俺は緑川から顔を離すと、棚に着いていた手も退けた。
「冗談だ」
緑川はほっとしたような、残念なような複雑な笑みを浮かべて、俺を見上げた。
「その好きな奴とは付き合えそう?」
俺は話題を振ってさりげなくその棚から遠ざかった。
案の定緑川も俺のあとを着いてくる。
東星紡の資料が置いてあったのは、まさに俺の手をついた場所だった。
「付き合いたいですけど、彼他に好きな人居るみたいで…」
緑川は資料を探すことをすっかり忘れたようで、俺の後をとことこついてくる。
作戦成功だ!
資料が陳列してある棚から充分離れた場所で俺は振り返った。
「好きな人?」
「そうです。忘れられない人って言ってました。でも…あたしも彼のこと好きなんですよね。どうしたらあたしの方を向いてくれるんだろ」
それは問いかけというよりも、独り言に近いものだった。
また面倒な男を好きになりやがって…
まぁ二股かけられてるわけじゃないし、二号さんでもなさそうだ。
以前の緑川にとってはまだましかな。
忘れられない人…
どうしたら自分の方を見てくれるか。
それは前も今も変わらない―――俺の最大の課題だ。
「お互い苦労するな」
頭の中であの整った顔立ちのオーランド……
もといマックス・ヴァレンタインの顔を思い浮かべ、
俺はちょっと苦笑いを漏らした。