Fahrenheit -華氏- Ⅱ
後ろを振り返る勇気はなかった。
振り返っても赤ん坊なんて居ないこと分かりきっていたから。
嫌な汗が額を滑り落ちて、俺は言葉を飲み込んだ。
手を宙ぶらりんにさせていると、真咲が一瞬だけ訝しげに眉をひそめたが、それでもすぐに伝票を取って、
「じゃぁね。アザールの件は悪かったと思ったし、ちょっと凹んでたから会いたかっただけ。
でも柏木さんの話は別よ。また連絡する」
ちょっと笑うと、真咲はレジへ行ってしまった。
真咲の言葉を聞きながら、俺は鏡から目を逸らすことはできなかった。
まばたきもせずにじっと凝視していると、やがて目が乾いてほんの一瞬だけまばたきをし、次の瞬間には赤ん坊の姿が消えていた。
真咲の姿が完全に視界から消えると、俺は恐る恐る後ろを振り返った。
当然ながらそこには―――
磨きこまれた洒落た大理石の柱があるだけで、何もなかった。
ごくりと唾を飲み込み、その柱を凝視していたが、どれだけ見つめてもどれだけ考えても赤ん坊の手なんて現われなかった。
どれぐらいそうやって柱の影を見据えていただろう。
通りかかった店員が怪訝そうに俺を見て、それでも知らないフリをして通り過ぎていく。
何やってるんだ、俺は。
冷静になって考えてみると、ひどくバカげている。
俺に霊感なんてないし……そもそもあれは霊なのか…?
幻覚を見るほど睡眠不足ではないし、今日は一滴もアルコールを入れていない。ましてや変なクスリに手を出してるわけでもない。
いたって正常だ。
だからそれが逆に―――怖かった。
テーブルの上に置かれたホットコーヒーはすっかり冷めてぬるくなっていたが、俺はそれに手を伸ばして、
ゆっくり味わうこともなく、半分ほど一気に飲み込んだ。
苦い味が喉を通過して、その苦味が現実味を帯びていて、そのことにほっとする。
カップを置いて、ぼんやりと向かい側のソファ席に目を向けると
一枚の紙切れが落ちていた。