Fahrenheit -華氏- Ⅱ
「へぇ。随分急な話ね。知らなかったわ」
何でもないようにあたしはさらりと答えた。
「相手はイギリスの元貴族の娘だって」
「へぇ。誰から聞いたの?」
心音はそこでようやく振り返り、あたしを無表情に見据える。
「おとーと」
「ふぅん」あたしは口の中で呟いて、目を細めた。
「Darn brother.(ろくでもない兄弟ね)」
あたしの言葉に、心音は乾いた笑いを漏らしただけだった。
―――アッパーイーストサイドの朝は空気がとても澄んでいる。
セントラルパークとイーストリバーにはさまれ、マンハッタンの中でも多くのコンドミニマムが立ち並び、お金持の住む高級住宅街だ。
イーストリバーの水面に月明かりが反射して柏木家の玄関の石段がわずかに青白く照らし出されている。
家に帰ると、ママが驚きを浮かべながらも出迎えてくれた。
「瑠華!お帰りなさい。びっくりしたわ。随分早かったのね。迎えに行こうと思ってたのに」
「びっくりさせようと思ってて。それに心音の部屋に寄ってきたの」
「心音ちゃん、元気?」
「元気だったわ。相変わらず忙しそうだったけど」
最後の心音の様子が若干気になる。だけど、彼女はあたしとは違って強いから。
あれこれ心配するのも、ありがた迷惑ね。きっと…
開け放たれたダイニングルームから、甘い焼き菓子の香りが漂ってきた。
「今ね、ケーキを焼いてる最中だったの。あなたが帰ってくるから」
ママはご機嫌にダイニングルームを振り返り、
「りんごのケーキ好きだったでしょう?」とあたしを中に促した。
ママのりんごケーキのことで、あたしは少しの間心音がどう一人の時間を過ごしているのか、
いっとき忘れた。