はぐれ雲。
「ここで待ってる」
待ち合わせ場所と時間が記されていた一枚の紙が、博子の前に差し出された。
「久々に会えたんだ。少し話さないか」
「だけど…」
「会ってくれないか」
その低く響く声に、博子の心は激しく揺れる。
博子は思った。
<もし私たちが、ただの先輩と後輩として会うのであれば、何のためらいもなく「うん」と言うだろう。
でも私はそうは割り切れない。
あなたをただの先輩だとは思えない。
だって、私の心にあなたはずっといたのだから。
その上、あなたは現役の暴力団幹部。
そして私の夫は…警察官。
彼を苦しめたり、裏切るようなことはできない>
それに亮二ともう一度会ってしまったら、ますますこの巻き戻された気持ちは、前に進めないような気がした。
何もかもあの頃に戻れたら…
そんなことできるはずもない。
「無理、行けない」
博子は細くて長い指で、紙を亮二の方へ押しやった。
戻されたメモに視線を落とし、彼は静かに訊ねた。
「それは…旦那が刑事で、俺がヤクザだからか」
なんて哀しい表情をするんだろう、それが余計に彼女の胸を圧迫する。
今こうして亮二と会っていることも、博子は嬉しく思う反面、うしろめたく思っているのに。
店内に流れるジャズ音楽が止んで、次の曲が流れ始めた。