はぐれ雲。
子どもが欲しい、何度そう思ったことか。

結婚して5年、悩んだ末博子は産婦人科の不妊治療の門をたった一人でたたいた。

待合室で夫と共に診察を待つ女性を、羨ましく感じることもあった。

けれど達也に仕事を休んで、とまでは言えない。言いたくても、言えない。

医師からは毎朝目が覚めたら体温を測り、グラフをつけるように勧められた。

「体温がカクッと一度下がってから急に上がる日があります。その前後で夫婦生活をもたれると、妊娠の可能性が高まります」

来る日も来る日も博子はすがるように記録をつけていき、何ヶ月もタイミングを計ってはみたが、妊娠するには至らなかった。

今度こそはと思っていても、毎回トイレで涙を流すことが繰り返される。

そして次第に妊娠検査薬を持つ手が、怖くて震えだすようになっていった。

達也の同僚の妻が妊娠したと聞き、大学の友達が出産したと聞くたびに、母親になる資格が自分にはないのではないか、そう責め、焦った。


<今日は妊娠できるかもしれない…>

そう思っていても、達也の帰りは遅く疲れ果てた彼になかなか言えるものではない。

「ねえ、今日はダメ、かな…?」

それでも博子は意を決して、ネクタイを緩めながらソファーに横たわる達也に訊いた。

「え?今日はあの日だっけ?そっか…じゃあ、ちょっと休んでから…」

そう言って目を閉じ、すぐに寝息をたてはじめた彼を見て、博子は初めて気付いた。

彼は自分の子どもが欲しいという気持ちに精一杯応えようとしてくれている。

どんなに疲れていても、嫌な顔をせずに…

でも、彼に子どもを作るためだけの夫婦生活だと思われたくない。

なんだか急に達也に無理強いをしている気がして、申し訳ないと思った。


ある日を境に、博子はグラフをつけなくなった。

達也との生活を楽しもう。
子どもがいなくったって、幸せな家庭はある。
自分を愛してくれる人がいる。
それだけで充分じゃないか。

心の重荷がなくなったのか、そう決心してからすぐに博子は妊娠した。

夢のようだった。

達也も喜んで、生まれてくる子どものおもちゃを買ってきては、赤ちゃんに会える日を二人して、指折り数える。


しかしその幸せは長続きしなかった。

心待ちにしていたその小さな命は、突然空に帰っていったのだ。

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