はぐれ雲。


「…お母さん?」

目が覚めたときは、病院のベッドだった。

「お母さん」

起き上がろうとして、鈍い痛みが下腹部を襲う。

目を大きく見開いて母の幸恵を見ると、彼女は博子の手を握り締め、目を真っ赤にして頷いた。

それが何を意味するのか、すぐにわかった。

「…赤ちゃん、だめだったの?」

その言葉を発した時、博子は自分でも驚くほど冷静だった。

幸恵は静かに目を閉じると、何度も小さく首を縦に動かす。

「そう」

病室の天井が、やけに白かった。

何もかも白紙に戻ってしまった、思い描いていた夢や、希望が全部消えてしまった。

<ああ、あの夢は赤ちゃんが帰っていく夢だったのね…>


達也のことはあえて聞かなかった。

どう彼に謝っていいのか、わからなかったから。

あんなに喜んでたのに。

まだ早いよって言ってたのに。
仕事が忙しくて、ろくに家にも帰って来れないのに。
ちょっとした暇をみつけてはおもちゃを買って帰ってきて…。


「達也さんね、仕事がぬけられなくて…時間がとれ次第、ここに来るから」

「…仕事」

抜けられないの…。

こんな時でも、彼は仕事をしている。

自分と血を分けた小さな命が亡くなっても、誰かのために働いている。

<それが…彼の言う正義?>

博子は目を閉じた。



「お母さん、ちょっと眠りたいのよ」

そう言うと、母は涙声で「着替えをとってくるから」と部屋を出ていった。

<どうして?どうしてなの!私には母親になる資格がないの?どうして私のところには赤ちゃんは来てくれないの?重荷だったの?小さなあなたに、私の思いは受け止めきれなかったの?>

涙がこぼれないように目を閉じていたのに、次から次へととめどなく涙が流れる。

堪えようとすればするほど、嗚咽がもれた。

誰もそんな博子を抱きしめる人はいない。

「達也さん…」

今、この瞬間に一番そばにいてほしかった人、寄り添ってほしかった人の名前を博子は呼び続けた。

「…どうして、そばにいてくれないの。どうしてひとりにするの」

何年も我慢してきた言葉がとうとう口をついて出た。

<それが正義というなら、私は要らない…!そんなもの!>


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