はぐれ雲。
「わかってないよ。君は世の中の穢れを知らない、甘く見ている」

彼女の膝に置いた手の甲に、一滴、また一滴と涙が落ちる。

「世間知らずは、自分の意見を言ってはいけないの?」

「…博子」

「世間を知らない女、それを望んだのはあなたじゃない…」

頭のてっぺんから冷たい水をかけられたように、彼にはショックな一言だった。

すとん、と彼女の肩から手が落ち、ぎこちなく彼は視線をそらした。

「…そう、だったな。
俺が、社会に出る機会を君から奪った。
働きたいという君に、家にいて俺を支えて欲しいと、確かにそう言ったよ…」


しばらく、博子のすすり泣く声だけがした。

達也もただ呆然とその姿を見ているしかなかった。



「なぁ、博子。聞いてもいいかな?」

震える達也の声に、彼女はようやく顔をあげた。

「君の心の中には、ずっと新明亮二がいたんだろ?」

「……」

「俺と付き合う前からずっと。わかってたよ。でもそれでも君と一緒にいたいと思った。いつか俺だけをみてくれるんじゃないかって期待してたよ。君に愛される自分を夢見てたよ」

「達也さん」

「でも、そうはならなかった。君はいつも心の奥の誰か…新明を見てたんじゃないのか」

達也は続ける。

「俺と一緒にいる時も、俺に抱かれているときも、ずっと…ずっと新明を想っていたんじゃないのか」

「達也さん!」

博子はその言葉に、彼の頬を叩いた。

「あんまりよ!」

彼の左の頬が赤く染まる。

「あんまりだわ!そんな言い方!」

「博子、君は俺を…」

叫び声にも似た彼女の声とは逆に、穏やかな声で、そして悲しそうな瞳で彼は訊いた。

「俺を愛してるか?」

静かだが、苦しく切ない声だった。

「愛してたか?」

風が無言でカーテンレースをはためかせる。


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