はぐれ雲。
そんなある日、達也は練習時間より随分前に道場へ向かった。

一人、素振りをしようと思っていた。

夏には学生最後の大きな大会がある。

いい成績を残したい…

博子にいいところを見せたいという気持ちも少なからずあった。

彼は幼い頃から剣道を始め、県下をはじめ数々の大会で優勝してきた。

しかし、一度だけ忘れられない試合がある。

完璧な達也の負け。あんなに見事な一本取られたことはなかった。

ほんの一瞬の気の緩みを相手に突かれたのだ。


だから、大きな試合の前には、あの時の悔しさを思い出すようにしている。

自分の心を引き締めるために。


道場をのぞいてみると、ジャージ姿の博子が一人で雑巾がけをしていた。

一列拭いては、バケツに張った水で雑巾を洗う。

そしてまた一列…それを黙々と繰り返しながら。

「葉山」

「あ、加瀬先輩。こんにちは」

博子は慌てて立ち上がり、笑顔で挨拶をした。

ジャージの膝の部分が湿って、色が濃くなっている。

「早いな。いつもこんなに早いの?」

「いえ、たまたまです」
と彼女は白い歯を見せながら、髪を撫でた。

「そう」

そんなことはない。
いつも早く来て、準備を整えてくれていることを達也は知っている。

「そっか、じゃあ俺も手伝うかな」

達也は腕まくりをした。
博子はそれに驚いた様子だったが、「じゃあ、お願いします」と笑顔で雑巾を一枚手渡す。

「先輩も今日は早いんですね」

「俺もたまたま、だよ」


床を拭き終えるまで、二人はとりとめのない話をした。

レポートが大変だとか、あの教授の授業はつまらないとか…果てはキャンパス内の怪談話まで。

二人の笑い声が天井の高い道場に響く。


「あ~結構、いい運動だな」

達也が両足を伸ばして、バテ気味に言った。

「だめですね、これくらいで。足腰鍛え直しですよ。次から練習前には私と一緒に雑巾がけしてくださいね。じゃないと、一回戦敗退ですよ」

達也の投げ出した雑巾を拾い上げると、博子は笑った。そしてバケツを持って、外の手洗い場へ向かう。

「片付けてきますね」

「…葉山」

達也が呼び止めた。



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