はぐれ雲。
「…あの」
振り返った博子の目は大きく見開き、黒い瞳が揺れているのがわかった。
せわしなく、何度もまばたきをする彼女。
道場の外では誰かの話し声が通り過ぎ、木の葉がざわめいていたが、音を運ぶ風がこのふたりに遠慮したのだろうか、道場の中には入ってこなくなった。
それほど、全ての音が遠くに感じられた。
長い沈黙だった。
どちらかがこの沈黙を破らなければ、永遠に続きそうに思えるほどの。
「こんにちはー」
同時に二人が道場の入り口を見遣ると、後輩部員の一人が顔をのぞかせた。
一瞬にして二人の間に流れていた気まずい空気が流れて消える。
「こんにちは」
咄嗟に笑顔を繕う博子。
「あ!すみません、葉山先輩。自分が雑巾かけますから。遅くなってすみません!」
博子の持っていたバケツに気付くと、後輩部員は申し訳なさそうに手を伸ばした。
「あ、いいのよ、もう終わったから。あとは雑巾洗うだけだから、着替えてていいわよ」
彼女は優しくそう言うと、達也から逃げるように足早に外へ出た。
「あの、加瀬先輩も雑巾がけを?すみません!俺、早く来たつもりだったんですけど」
その彼女の後ろ姿に、うまく逃げられたな、そう思って達也は一人で笑った。
そして後輩の頭を一発叩く。
「おまえなぁーもっと遅く来てもよかったんだよ」と呟きながら。
「はい?」
「罰だ。今日の練習前に、切り返し連続200本を命じる。俺が受けるから、ごまかしはきかないからな」
「え!すみません、すみません。次はもっと早く来ますから」
叩かれた本当の理由もわからず、彼はひたすら謝った。