はぐれ雲。

博子の心は乱れていた。

それを静めるかのように、たったニ枚の雑巾を時間をかけて洗う。

嬉しかった。

嬉しくて嬉しくて仕方ないのに、それを抑え込もうとする気持ちがある。

蛇口から勢いよく水が出ては、次々と顔にしぶきが飛んだ。

しかし、そんなことは気にならない。


加瀬達也は博子がマネージャーとして入部して以来、仕事の一つ一つを丁寧に教えてくれた。

彼女も一生懸命に覚えた。

そんな彼に応えたいと思ったから。

また剣道に携われるのは、彼のおかげだと思っていたから。

それに、彼の剣道を見るのが好きだった。

理由はわかっている。

あの人と同じ、真っ直ぐな剣道。

あの人と同じ得意技、「飛び込み面」。

どんな状況の試合でも、決してブレることはない彼の剣道。

それを見ていると切なくて、でもどこか懐かしくて…目で追わずにはいられなかった。

試合中の達也を、あの人だと錯覚してしまう。

でも表彰台に上がった彼の嬉しそうな笑顔を見て、「ああ、あの人じゃないんだ」と我に返る。

だってあの人は優勝しても、笑わないから。

絶対に…


それに彼は優しい。

いつも実家から通学している博子を、夜道は危ないからと部活帰りに駅まで送ってくれた。

「加瀬先輩、私、ひとりでも大丈夫ですから」

そう言っても

「どうせ俺のアパートもこっちだから」と徒歩の博子に合わせて、自転車を押して歩いてくれた。

そう並んで歩いてくれた。

そこも「あの人」と違うところ。


「いいなぁ、博子は」
「いいなぁ、達也は」

そんな真梨子やアキラに、達也は冗談っぽくいつもこう言うのだった。

「いいだろ」と。

その時の笑顔がかわいいと思ったこともある。


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