はぐれ雲。
彼は最後に確かにこう言った。
「ありがとう」と。
初めて聞く彼のその言葉が、二人の別れの言葉になった。
博子は両手で顔を覆った。
「私こそ、ありがとう…新明くん」
「博子…」
亮二は固く目を閉じた。
今この扉を開ければ、まだ間に合うことはわかっていた。
彼女を抱きしめられることはわかっていた。
しかし、もうそれをしてはならない。
彼女を元いた場所に、返さねばならない。
そう加瀬達也のもとに。
ひたむきに博子を愛する、あの男のもとに。
目をゆっくり開けると、亮二はドアノブからゆっくりと手を引いた。
手の甲の蝶が、哀しげに羽を震わせた。
「じゃあな、博子」
彼はそう呟くと、部屋の奥へと入っていった。
あの大きな窓の前に立つ。
ぼやけた夜景に、亮二は誓う。
「俺が、この闇の世界を支配してやる」と。
そして大きく深呼吸をすると、亮二はネクタイを締めた。
愛に流されそうな心を引き締めるように、強く、きつく手に力をこめる。
キュッキュッと生地のすれる音が、やけに大きく聞こえる気がした。