はぐれ雲。
「ご自宅まで、お送りします」

直人の言葉に、博子は静かに首を振った。

「でも、何かあったら大変です。亮二さんにきつく言われてますので、俺が怒られてしまいます」

「タクシー拾うから大丈夫よ。それにそんなことで、彼は怒らない。私の性格知ってるから、やっぱりなって笑うだけよ」

「でも」

食い下がる直人に言った。
「一人になりたいの、お願い」

「……」

どうしてよいのかわからない、といった顔の直人に彼女は涙目で笑った。

「大丈夫よ、私は」

そんな彼女の痛々しい姿に、直人はうつむく。

「橘さん、今までありがとうございました。お元気で」

「博子さんも…」

二人は、互いに頭を下げた。


博子は冷たい雨の中を走る。
水たまりに入っても、気にならなかった。

『かぶれ、濡れるぞ』
亮二が上着を差し出してくれた光景が、目の前に広がる。

頬を伝うのが雨の滴か、涙なのか、自分でもわからなかった。

ただ、亮二から、亮二のいるところから離れなければ、と思った。

もう振り返ることは許されないのだ。


『一生涯おまえだけを想い続ける』

『おまえにはそばにいて、守ってくれる人がいるだろ。何があっても、その人からはぐれるな…』


びしょ濡れで、官舎三階の部屋のドアを開けた。

真っ暗な玄関に、博子の息遣いだけが響く。

彼女はドアにもたれたまま、崩れ落ちるように座り込んだ。

「新明くん…!」

<ねぇ、神様。
せめて時計の針が12時を指すまでは、彼を想うことを許して。彼を想って泣くことを許して…>

膝を抱えて、一人、むせび泣いた。

『あの雲の名前、知ってるか?』

<ねぇ、新明くん。
私、『はぐれ雲』が好きだった。
そんなひとりぼっちの、寂しい雲に…
私は、ずっと恋してたのね…>

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