はぐれ雲。
「君に会いたかったからじゃないかな」

「あたしに?」

「そうだ。おじいちゃんは今まですごく大変な仕事をしてきた。とても危険な仕事だ。
でも、そんな時に仕事の神様がやって来て、おじいちゃんに言ったんだ。
君に会いたがっている人がいる、もし、君もその人に会いたいと思うなら、指を一本貸してくれって。その指で、代わりに仕事をしておいてやるから、ゆっくり、その人と会っておいで。でももうその人から離れちゃだめだぞって」

さやかは真剣に聞いていた。

「でも、神様に指を貸してしまったら、字を書いたり、お箸を持ったりするのが不便になってしまう。それでも、おじいちゃんは君のおばあちゃんに会いたくて、ずっと一緒にいたくて、神様に一本指を預けた。
次は君のお母さんだ。
その時もおじいちゃんは神様に指を預けた。
そして君だ。君に会いたくて会いたくて、もう一本の指を…」

「貸してあげてるんだから、返ってくるわよね?おじいちゃんの指」

「…ああ」

「絶対?」

鼻を膨らませて真剣な目を向けてくる少女に、亮二は微笑んだ。

「ああ、きっと返してくれる」

「さやか、もういいだろう。こっちへおいで」

助け舟を出すように、神園が女の子を抱き上げた。

うれしそうに、小さな細い腕が首に巻きつく。

亮二は立ち上がると、深々と頭を下げた。

「でも、お兄ちゃんにはその神様は来てくれなかったの?会いたい人、いなかったの?
だから指を神様に預けなかったの?」

亮二は両手を見た。

消えかかった指の付け根のしこり。

竹刀を握らなくなった今でもまだ残っている。

彼は困ったように笑って、軽く鼻を触ると言った。

「来てくれたよ、神様。こんな俺のところにも」

大きな丸い瞳が、その次に出る言葉を待っていた。

「来てくれたけど…」

浩介の鼻をすする音が聞こえた。

「断ったんだ」

広い部屋が、シンと静まり返る。

「なんで?なんでなの?会いたくなかったの?」

「さやか、もうやめなさい」

たまらず、神園が口をはさむ。

「…会いたい人か。そんな人…」

さやかと亮二の瞳がぶつかり合った。

「俺には、もういないから」

穏やかな声。
そしてどことなく、自分にそう言い聞かせるようにも聞こえた。



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