はぐれ雲。
真梨子がカップをテーブルに置く音で、博子は我に返った。

「で、真梨子。話って何?」

明らかに、真梨子の表情が曇った。

「どうしたのよ」

「言おうかどうしようか、すっごく悩んだんだけど、でも…」

「何よ、言ってよ」

「昔のことだから、もういいよ…ね」

「昔のこと?」

嫌な予感がした。

真梨子の表情にも、声色にも。

彼女は様子をうかがうように上目遣いで博子を見ると、急に声が低くした。

「会っちゃったの、新明先輩に」

「新…」

息が詰まった。

突然博子の心を何かが音をたてて、かき乱していくのがわかった。

まるで嵐のように。

真梨子は続ける。

「先週ね、彼氏と中央区の本通りに遊びに行って、バーのカウンターで飲んでたのよ。
でね、しばらくしたら、黒いスーツをビシッとキメた背の高い男の人が近くに座ったんだけど…」

そこまで言って、彼女は気まずそうな表情で首を傾げた。言っていいものかここまで話しておいて、悩んでいる様子だ。

「何?続けて」

言いよどむ真梨子に、博子は身を乗り出した。

「隠しても仕方ないことだから、言うよ。女の人…と一緒でね。その人がリョウジ、リョウジって、その男の人を呼ぶのよ。まあ、どこにでもある名前かと思ってたんだけど、気になってその人の顔、見たのよ」

真梨子は一息ついた。

「新明先輩だった。間違いなく」

博子は手で口を覆った。喉がカラカラだ。

心臓が飛び出してきそうなほど、強く激しく胸を打つ。


「ほら先輩、右手の甲にアザがあったじゃない。それもちゃんとあったし」

今度は自分の呼吸が早くなるのを抑えられなかった。


そう、確かに彼には右の手の甲にアザがあった。

覚えてる、まるで蝶のような形の…

蝶が留まったようだねって、そう彼に言ったのを、覚えてる。




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