はぐれ雲。
「久しぶり」
「…どうしたの」
「君のアパートに行っても留守だったから、きっとここだと思って」
男が一人、頭をかきながらうつむき加減で、はにかんだ笑みを浮かべる。
ふたりの間にしばらくの沈黙が流れた。
「元気、だった?」
「ええ。あなたも?」
とまどいながら彼女がそう訊くと、相手はにこやかに「ああ」と何度も頷いた。
「…一体どうしたの?」
博子がもう一度尋ねると、彼は恥ずかしそうに笑ってから下唇をかんだ。
「俺、やめてきたんだ」
真顔になって彼女を見つめる。
「え?」
「やめてきたんだ、警察」
蝉の音がやけに大きく聞こえ、暑さで彼の足元が揺れているように見える。
「どうして…」
博子は額に滲む汗をそのままに、彼の顔を見た。
彼も暑さのせいだろうか、顔を少し歪めている。
「こんなこと、あいつの前で言ったら怒られるかもしれないけど…」
男は新明亮二の眠る墓に、チラリと目をやった。
博子も振り返り、今しがた供えたばかりの花に視線を落とす。
濡れた墓石から、熱気が立ち上っていた。
「博子」
一歩、また一歩と彼は砂利を踏みしめて彼女に近付いた。
名を呼ばれ、彼女はもう一度彼を見る。
目が合った瞬間、その足は止まった。
そしてその男は意を決したように口を開く。
いつまでたっても変わらない、優しく、全てを包み込むような声で。
「…やっぱり俺には、君しかいないんだ」
彼女は、静かに目を閉じた。
それから長い息を吐くと、涼やかな口元をほころばせながら、その黒目がちな瞳で彼を見つめ返した。
蝉しぐれ。
その言葉がよく似合う、ある夏の昼下がりのことだった。
<完>
「…どうしたの」
「君のアパートに行っても留守だったから、きっとここだと思って」
男が一人、頭をかきながらうつむき加減で、はにかんだ笑みを浮かべる。
ふたりの間にしばらくの沈黙が流れた。
「元気、だった?」
「ええ。あなたも?」
とまどいながら彼女がそう訊くと、相手はにこやかに「ああ」と何度も頷いた。
「…一体どうしたの?」
博子がもう一度尋ねると、彼は恥ずかしそうに笑ってから下唇をかんだ。
「俺、やめてきたんだ」
真顔になって彼女を見つめる。
「え?」
「やめてきたんだ、警察」
蝉の音がやけに大きく聞こえ、暑さで彼の足元が揺れているように見える。
「どうして…」
博子は額に滲む汗をそのままに、彼の顔を見た。
彼も暑さのせいだろうか、顔を少し歪めている。
「こんなこと、あいつの前で言ったら怒られるかもしれないけど…」
男は新明亮二の眠る墓に、チラリと目をやった。
博子も振り返り、今しがた供えたばかりの花に視線を落とす。
濡れた墓石から、熱気が立ち上っていた。
「博子」
一歩、また一歩と彼は砂利を踏みしめて彼女に近付いた。
名を呼ばれ、彼女はもう一度彼を見る。
目が合った瞬間、その足は止まった。
そしてその男は意を決したように口を開く。
いつまでたっても変わらない、優しく、全てを包み込むような声で。
「…やっぱり俺には、君しかいないんだ」
彼女は、静かに目を閉じた。
それから長い息を吐くと、涼やかな口元をほころばせながら、その黒目がちな瞳で彼を見つめ返した。
蝉しぐれ。
その言葉がよく似合う、ある夏の昼下がりのことだった。
<完>