はぐれ雲。
店を出ると、亮二は博子の家の方向に向かって歩き出した。

「新明くん、ごちそうさまでした」

「おお」

いつものようにポケットに手を突っ込んで歩いている。

<いつからああやって歩いてたのかな>

彼の後ろ姿を見ながら博子は思った。

三月の夜の風はまだ冷たい。

亮二は何も言わずに、ただ歩く。

そんなことには慣れていた博子は、特に不思議がることもなく今日の出来事に浮かれていた。


「じゃあな」

家の前まで彼は送ってくれた。

「今日はありがとう。それに送ってもらちゃって」

次の一言を言うのに、博子はちょっとためらった。

「それに…えっと、楽しかった」

結局恥ずかしくて、言い終わる前にうつむいてしまった。

「次、会えるのは学校…入学式かな」

春休みの間に、今日みたいにまた会いたい…そんなこと言えるはずもなかった。

「ああ、そうだな。入学式だ、な」

亮二はうつむいたまま、足元の小石を蹴る。

「じゃあ、おやすみ。バイバイ」

向かい合っての、ぎこちない会話。


玄関のドアノブに手をかけた時、

「…博子」と亮二の声が背後から彼女を呼び止めた。

「ん?何?」

振り返ったが、亮二の表情が暗くてわからない。

目を凝らしてみても、全く見えない。

ただ黒いシルエットがあるだけだ。

「もっとちゃんと飯食えよ。そんなにやせてたら、高校の剣道部でやってけねえぞ」

彼の声がいつになく優しく感じた。

「うん、わかった」

博子は笑顔で答えると、玄関のドアを開けた。

ニ度目の「じゃあな」が後ろで聞こえた気がして振り返ると、彼はもうそこにはいなかった。


その夜、博子は眠れなかった。
今日のことを思い出すと、顔がにやついてしまう。

亮二が家の前まで来て待っててくれた。
亮二が腕をつかんだ。
亮二がお好み焼きを食べに連れて行ったくれた。
亮二が、初めて「博子」と呼んでくれた。

初めてづくしに、博子は有頂天になっていた。

ベッドの上で顔まで布団をかけ、枕を抱きしめた。

どんなに強く抱きしめても、
心のくすぐったさは、一晩中ずっと続いた。



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