はぐれ雲。
深夜3時過ぎ。

玄関の重い鉄の扉が閉まる音がして、博子は目を覚ました。

「ごめん、起こした?」

暗闇の中から、達也の疲れきった声がした。

「ううん。大丈夫よ。こんな時間まで、お疲れさま」

そう言って布団から出ると、博子は枕もとの電気スタンドのスイッチを入れた。

ぼんやりと部屋が照らし出される。

それでも博子の暗闇に慣れた目には、染みるような明るさだ。

達也はリビングのソファーに横たわると、目を閉じネクタイを緩めた。

「達也さん、何か食べる?お風呂は」

静かに博子は尋ねた。

「え?いや、あとで」

そう言って、彼はすぐに寝息をたてはじめた。


博子は達也にそっとタオルケットをかけると、頬を撫でた。

彼の顔色がひどく悪い。

彼女は床に座り込み、夫の手に自分の手を重ね合わせた。

大きな手…

手のひらには消えかかっているが、小指と薬指の根元に固いしこりがある。

剣道をやっていた印。

どんどん小さくなって、まるで何事もなかったかのようになっていく。

なにもかも…
それが前に進むということ。

<でも私は、私の心は昔に巻き戻されていくようよ、達也さん…>

赤ちゃんがまだお腹にいた頃、

新婚の頃、

警察学校に入った彼からの連絡を毎日待っていた頃、

そして大学の入学式で始めて出逢った時のこと…

どんどん巻き戻されて、思い出してはならないところまで心が過去に帰っていく。

そう、彼のことだった。

<新明くん…本当にこの街にいるの?>

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