はぐれ雲。
その日は昼近くまで達也は眠っていた。
博子はできるだけ音を立てないように、食事の準備と風呂の準備をととのえた。
しかしその努力も虚しく、彼の携帯電話がけたたましく鳴る。
「…はい、加瀬…えわかりました、すぐ行きます」
かけてあったタオルケットを無造作に取ると、達也は夜中に帰ってきた時のままの服にネクタイを締めはじめた。
「仕事なの?」
博子は玄関に向かう達也を慌てて追った。
「ああ」
「ご飯できてるの。お弁当箱につめるわよ。あっちでも食べられるし…」
「ごめん、時間がないんだ」
彼は博子に目を合わすことなく、あっという間に出て行った。
いつ帰るかさえも言わずに。
博子がリビングに戻ると、達也にかけたブルーのタオルケットが床に落ちているのが目に入った。
まるでそれは振り払われて置き去りにされたようで、とてもみじめに見える。
なんだか自分みたいだ、そう思った。
途端に涙がこみあげてきて、すぐに両手で顔をおおう。
<いつまで私たちはこうなんだろう>
博子は達也が自分を避けているように思えてならなかった。
そう、赤ちゃんを空に返したあの日から。
もしあのまま何もなければ、今頃はこの腕にその命を抱いていたはずだったのに。
ソファーに手を置くと、まだ達也のぬくもりが残っていた。
<彼と話したい。手放してしまった命のことを一緒に話したい。一人で抱え込むのは辛すぎる。そばにいて…>
博子は達也に寄り添ってほしかった。
前には到底進めそうにない。
たった一人での、その一歩はあまりにも大きすぎる気がして。