平安異聞録
だか只今彼女が、猛烈にこの現し世から逃避したいのは分からないでもない。
ふと耳を澄ませば、幾人かの女の声がそこらじゅうで、彼女を探している。
聖凪は声のする方にちらりと、煩わしそうに視線を向けた後、何事もなかったかのように書物に目を戻した。
いや、何事ないと思いたいだけなのだ。
くる日もくる日も、文字の手習い、楽器の手習い、歌の手習い、縫い物の手習い。
一流の貴族の姫として、恥ずかしくない様、教養のある女性になる様、日々精を出しているのだ。
日に二三度は姿を眩ます位許されるだろう。
父は貴族としての教養には口は出さないが、祖父と母が望むのだから仕方がないのだ。
二人とも自分を愛しんでくれているのは、痛いほど分かっている。
だから、日に二三度逃げ出しても、その日の内にこなさねばならない事はこなしている。
だが、その頑張りは何処其の貴族との良い縁組が目的であるのは本当に遣る瀬ない。
貴族の姫に求められるのは高い教養に、愛嬌、政治的利用価値、器量良ければ尚よし。
結局は身分が一番に来るのだ。愛の無い関係など成立する訳もない、偽りの関係だ。
そんな婚姻が幸せな訳ないだろう。
本当に気に食わない、政事の道具にされると言う事が。
苛立つのを抑えるかのように、聖凪は荒々しく手燭に息を吹き掛けた。
申し訳程度に闇の中に灯っていた橙が消え、塗籠は完全な闇が支配した。
書物を閉じ、やる気のない息を吐き出し、暗闇の中で自分の身の上を呪う様は、出世の見込みがなく、人生を諦めた壮年の男のようだ。