その信頼は「死ね!」という下種の言葉から始まった[エッセイ]
「でも、厳しくしつけるなら他の表現を使えばいい」


 それも一つのやり方として正しいと思う。

 それは『なるべく傷つけない』やり方として。

 恩師のやり方は『あえて傷つける』やり方だった。


 罵倒される痛みを知らずして、その痛みを真に理解できるだろうか?


 口で優しく教え説くことは確かに可能だ。

 しかしいくら言葉を尽くしても、他人の痛みを自分で感じることは不可能だ。


 恩師のことを嫌ったまま、傷ついたままの生徒もいただろう。
 だが、その生徒が


「こんな酷い言葉、私は人には絶対言わないんだ!」


 そう思って恩師を反面教師にできたなら、恩師の想いは読み取れていなくとも、教えは正しく読み取っている。


 もしも、『なるべく傷つけない』やり方で『やる気を出させてあげる』だけの教育しか受けない環境で育ったら。

罵倒される痛みを知らぬまま社会に出て、初めて真の心ない罵倒を受けたとき。

自分で立ち上がる術も力も知らなくて途方に暮れてしまうかもしれない。

 そのとき「もっと厳しいことも教えてくれたら良かったのに」と言われる可能性もあるのだ。
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