Addict -中毒-
私は半音上にも下にもなる。
けれどそれは音として発音されることない。
そして名も知らない彼女は―――白い鍵盤。それぞれの音に読み方があり、半音上でも下でもない。
啓人と並んでも―――まったく違和感のない雰囲気。
むしろ一緒に歩いているところを想像すると、その光景がお似合いだと思ってしまう。
こんなことを考える私は、相当疲れていたに違いない。
たったコートの色で……
いいえ、名も知らない彼女が若くて美しく、眩しいほどの美貌を兼ね備えていたからに違いない。
私たちはそれ以上会話を交わすことなく、すれ違った。
すれ違う瞬間―――
乾いた音が響いた。
カツ……ン―――
綺麗なGの音―――……
一寸の調律の乱れもなく、リズム正しく心地よい響きの。
それはヒールを鳴らす音に違いなかったけれど、音感に例えると、間違いなくその音だった。
それは啓人が睨むようにして押していた一つの音。
あのピアノの調律は完璧とは言えなかった。僅かばかり狂った調律。
でも彼女の鳴らしたヒールの音は
間違いなく正確だった。