坂道
父は裕美の側まで近づき、そっと背中から娘を優しく抱きしめながら言った。


「父さんは、もう行かなきゃならない。」


その声に、裕美は慌てて振り返った。



「もう…?」


裕美は心細げにそう問いかけた。



「神様とは、ほんの少しだけ、と約束して来たからね。」


そう言うと父は何かに気がついたかのように、裕美の体を見つめた。



そして、うれしそうにはにかむと、娘の肩に右手を置いた。


「そのコートが似合う年になったんだな。」


そういう父の声に、驚いたように裕美が見下ろすと、いつの間にか裕美はあのダッフルコートを着ていた。



「うん。お母さんにもらったコート、大事に着てたんだ。すごい気に入ってた。」


「そうか。」


父は娘の声に満足そうにそう言うと、目を細めた。



「それが、どうかしたの?」


裕美は、不思議そうにそう尋ねた。それを聞いた父は、恥ずかしそうに頭を掻いた。



「そのコートは高校を卒業して初めて貰った給料で、そのころ付き合っていた母さんに買ってあげたものなんだよ。」


「え…。」


裕美は、始めて聞いた事実に驚いた。



父は優しそうな笑顔で頷いた。


「だから父さん、うれしいんだ。」


そう言うと父は、娘の肩から手を離した。



裕美は思わず右手を父に向かって伸ばそうとする。




そんな娘のしぐさを、父は左手で制した。
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