坂道
「裕美。まだこちらに来ちゃだめだ。」


裕美は、思わず胸の日記を見た。



その表紙はほんのりと暖かい。


まるで、何か生き物にじかに触れているかのようだ。



「父さんは、先に行って待ってるよ。悔いの無いようにな。」


「父さん。」


そう言って裕美が顔を上げたときには、もうあの優しい笑顔はどこにもなかった。 



父さん…。



裕美は、身にまとったダッフルコートから、両親の想いを体全体で感じた。


それにこのコートには、もう一人いとおしい人のぬくもりも染み込んでいる。



もう一人じゃない。



そう自分に言い聞かせると、裕美は日記帳を部屋の隅にある机に置いた。


そして静かにシャープペンシルを右手に持ち、ゆっくりとページをめくり始めた。
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