坂道
「海に行くなら今だな。」


奈央のほうに向き直ってそう言うあおいの言葉に、奈央は何も返さなかった。


確かに十五日を過ぎると、奈央の住む街の海は、くらげが出てくるので泳ぐのには適さない。


あおいの言う通り、泳ぎに行くなら今しかないであろう。



しかし、だからといって奈央は、あおいの誘いに乗って、あの海に行く気にはならなかった。


想い出が一杯のあの海は、今は見たくなかった。


数日前、仲間たちと海に行ったばかりの奈央は、今海に行っても楽しくなど決してないということが分かっていた。



「どうしたの?」


怪訝そうにそう問いかけるあおいに、奈央はあわてて首を振った。



「最近、変。何かあったの?」


「ううん。」


奈央は再び首を小さく振った。



あおいは裕美が、交通事故で亡くなったことは全く知らない。


奈央は言おうかと思ったが、あおいとは直接関係なかったし、それ以前にその明るい表情を曇らすのは気がひけた。



言えばいいのに。


変な気を回すのが、私の悪い癖だ。




奈央は裕美から、東京に行くべきかについて相談された時も、悔いのないように行くべきと強く言った。


行きたい気持ちで一杯の裕美を目の前に、必要以上に強く勧めた。



しかし、あの時自分が行かないほうがいい、そう言えば裕美は死なずにすんだのではないか。



裕美の死は、全て自分が強く勧めたせいなのではないか。



奈央は、そうずっと自分を責め続けていた。


裕美の死を聞かされたあの日から、ずっとずっと苦しみ続けていた。



いつもは好感のもてるあおいの、そのさばさばとした口調が、今日はやたらにうっとうしく感じられる。



じっと目の前に運ばれてきた赤ワインをぼんやりと見る奈央の両瞳には、何も映ってはいなかった。
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