From Y
 ねこが笑ってみせると、
「ちょっと羨ましいな、それ」
 三年はくっきりと隈のできた目で力無く笑い、ベンチに腰を下ろした。
「俺は逆に眠れん。ここ三週間くらい」
 自分と同じ病気かもしれないと思ったのは、経験者の性だろう。
「私も前は眠れませんでしたよ」
 今後もし嗜眠の症状が出たら危ないな、と内心で三年を案じる。
「体壊す前に病院行った方がいいですよ」
 ねこが半ば本気で忠告すると、三年は怠そうに頷いた。

 三度目、ねこはちゃんと起きていた。
「今日は寝てないんだな」
「はい」
 ねこの中には、一度眠るとそのまま目覚めないのではないかという恐怖が生まれていた。結局は夜になると眠ってしまうのだが。
「あのさ、どこの病院行った?」
「え?」
 唐突な問いにねこが戸惑うと、三年は気まずそうに頭を掻いた。
「市立病院行ったら、医者に『わからん』って言われてさ」
 ねこの忠告を耳に留めて病院に行ったらしい。ねこは市内のとある病院の名前を教えた。今日は通院日で、これからバスに乗ってそこに行くのだということも。
「なるほど。だからたまにしかいないのか」
 三年は納得したように頷いた。
「そういえば、」
 バスが来るまでにまだ間があった。ねこはとっさに思いついたことを口にした。
「自己紹介してませんでしたね」
「確かに」
 三年が手を打った。
「鈴木ねこといいます。ひらがなで『ねこ』です」
「ねこっていうんだ。綺麗な名前だね」
「ありがとうございます」
 自分の名前を綺麗だと言われたのは初めてで、素直に嬉しかった。大抵の人には「変わってる」、良くて「かわいい」としか評されたことがなかった。
「牧野羊です。牧場に野原、羊は牡羊座の羊な」
「牧野先輩も、牧歌的で良いお名前ですね」
 三年は、意外そうな顔をした。
「牧歌的なんて言われたの初めて。つーか羊でいいよ、先輩じゃねえし」
「では、私のことも下の名前でお願いしますね。ちなみにちゃん付けとかさん付けは好きじゃありませんので」
「了解」
 羊は大らかに笑った。
「眠り病、治るといいな」
「ありがとうございます。……羊さんも、眠れるようになるといいですね」
 呼び慣れない名前に若干間が空き、ねこも笑顔で言った。
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