桜が散るその日
 ふと、額から手がもうないことに気がついた。少し、残念な気がした。というか、残念としか思わなかった。
 そして、いつから握っていたのか彼の左手にあるバイオリンが目に入った。そう言えば、自分はバイオリンに惹かれてここまできたんだと気がついた。
 奏の思っていることを知ってか知らずかわかれないけれど。視線に気づいた彼は、ひょいっと奏でによく見えるように軽く持ち上げる。そして奏を覗く顔は第一印象とは少し違う、かわいい顔をして首をかしげていた。まるで、犬のようだ。
「これが、どうかしたのか?」
「あ、その、部屋から聞こえたから」
「そうか」
なぜか、悲しそうにバイオリンに視線を落として、今度は後ろの桜を振り返った。それが何を意味するのか奏にはまったくわからなかった。そして、奏に視線を戻す。
「悪かったな。明日からは聞こえないように、場所を変える」
「え?」
奏はまたもや目を丸くした。
 彼はどうしてそんなことを言うのだろう?奏は、このバイオリンに惹かれたのに。
 このままでは、明日には聴けない。それは避けたい。
「別に、あなたのバイオリンが嫌いなわけではないわ。場所を変えるなんてしないでちょうだい」
「でも、下手だって」
「それは!」
忘れていた恥ずかしさが、蘇る。
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