桜が散るその日
「どうした?」
どうしていいのかわからずに困惑しているのがわかる。それを見た奏は思わず笑ってしまった。第一印象と違いすぎる彼の一面は、見ていてとても楽しいものだった。
「涙が出るほど、いい演奏だったわ。また、聴かせてね」
笑顔になった奏を見てほっとしたように、彼は柔らかくほほえむ。それは、綺麗に。
「次は泣かないでくれよ。先生」
「先生?」
今度は奏がきょとんとする番だった。先生とはいったいなんだ?
「あんた、俺のバイオリンをみてくれるんだろ」
合点がいって、はにかんだ。
「先生なんて、そんな偉いものじゃないわ」
すっと片手を差し出す。彼はそれを疑問そうに眺める。
「私は望月(もちづき)奏(かなで)。あなたは?」
やっと差し出された手の意味を知った。しかし、彼はそれを握ろうとしなかった。すっと、目をそらすばかりだった。
「桜田(さくらだ)」
「それは知っているわ。下の名前は?」
桜田は黙るばかりだった。名前がないわけがない。それなら、なぜ答えない。答えられない理由があるのだろうか?
 ふと、奏は時間が気になった。ここに結構な時間、いた気がする。
 さっと血の気がひく気がした。いくら前日具合が悪くても、次の日は午後のお稽古はしなくてはいけない。きっちり一時には部屋で身支度を調えて母様を待たなくてはいけない。もし、それができていなかったら。
 そこまで考えて、奏は頭を振って勢いよく立ち上がる。
「明日も来るわ」
まるで嵐でも去るかのように、奏は来た道を戻った。
 さっきまでの逢瀬の余韻に浸る余裕なんて、彼女にはなかった。
 桜田を振る向くことも、できなかった。

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