桜が散るその日
 初めて聞いた曲。いや、それは嘘か。さっきも聞いた。桜に寄りかかって。明るくて、品があって、美しい。それなのに、どこか悲しい。そんな曲。
 瞼を閉じると、鮮明に曲のイメージが映し出される。
 どこまでも澄んだ空。それに溶けるように咲き誇る大きな桜。それなのに、宙に舞っている薄桃色。
 2人の男女。奏には想い合っている2人に見えた。
 その間を隔てる薄い壁。重なり合う手を、邪魔している。重なり合っているように見えて、重なることのない互いの手。そばにいるとわかっているのに顔さえ見えない。こんなに近くにいるのに、どこか遠い2人。
 こんなに薄いのに、決して崩れ落ちない壁にもどかしさを感じる。
 どうして?こんなに綺麗な曲なのに、こんなに悲しいなんて。
 桜田が奏でてくれるバイオリンなのに。
 どうしてだか、まぶたを開くことが怖かった。開いたときに、桜田がいなかったら?そんな不安がよぎる。バイオリンの音が聞こえているのだから、いないわけがないのに。
 そっとまぶたをあげると、葉桜の下でバイオリンを奏でている桜田がいた。
 糸の震える音。綺麗で、どこか儚げ。奏の胸をこんなにも締め付けて、世界を震わせる。 あの見えてしまった、情景のせいだ。目の前にいる彼が遠く感じられるのも。どこかに行ってしまうのではないのかという不安も。
 ほっとしたはずなのに、こんなにも不安。
 奏は駆け出さずにはいられなかった。
 桜田が演奏を止めるのが早いか、奏は桜田の胸に飛び込んだ。
 自分がどうしてこんな行動に出たのか奏もわからなかった。ただ、不安だった。こうしてみると、幸せになった。それなのに、今度は怖くなった。
「どこにも行かないで。そばにいて」
そう言って彼の服を強く握りしめる。ぎゅっと。離れないように。
 奏が思っていることを口に出してみると、それは訳のわからないものだった。
 桜田は一言もどこかに行くとも、二度と会えないとも言っていなかった。どうしてそんなことを言われるのか、桜田にはきっと訳がわからないだろう。それでも、奏はずっとくり返すばかりだった。まるで、もの分かりの悪い子供のように。
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