桜が散るその日
 状況はわからないが、こんなに奏が辛そうなのは心が痛む。突然、どうしたのだろう。
「今、そばにいるじゃないか」
どこにも行くなんて桜田にはない。今だってそばにいる。奏を突き放したことなんかあっただろうか。こんなに大切に思っているのに、どうして不安にさせてしまったのだろう。
 儚げな桜の枝のような奏。下手に扱うと散ってしまいそうで、こちらが不安になる。
 奏がそっと顔を上げる。泣いていたのか、頬が濡れていた。大きな目も潤んでいた。
 本当に、この子は綺麗に泣く。
「ずっとよ。あなたがいない生活なんて、いや」
俺だって…。
 喉まで出ていた言葉。しかし、口には出さずに飲み込む。
 ユルサレナイ。
 どんなに望んでいても、それは願ってはいけない。考えてはいけない。
 桜田は、答えられない自分がもどかしかった。しかし、それ以上に、なにも言ってくれないことに奏は切なかった。
 奏の目がすっと細められる。その端から、今にでも雫が溢れてしまいそうだった。
 その目はじっと桜田を見据えていた。彼の考えを、彼の心を知りたくて。もう、何年も一緒にいるというのに、彼はまったく心を触れさせない。核心を絶対に見せない。名前だって、まだ教えてもらっていない。
 奏がいくら手を伸ばして触れようとしても、届かない。
 そう、さっきの情景の2人のように。
 残酷だ。お互い、こんなに求めているのに。お互いが残酷だ。
「あんたは良家の娘だ。近いうちに、いい家柄のところに嫁ぐんだ」
そうつぶやいた桜田の声は、張り裂けそうなぐらいに苦しそうだった。言葉はこんなに拒絶を示しているのに、行動はその逆だった。震えている腕。指先までも震えていた。なにももっていない手は頭、バイオリンをもっている方は背中に。ぎゅっと壊れそうなものを強く抱きしめるように、奏は桜田に抱きしめられていた。頭を押さえられていて、彼の顔を見ることができなかった。
 しかし、桜田がこんなにも近く感じられた。こんなにも苦しいのに、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。
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