桜が散るその日
 あの後、奏はどうやって自室まで来たかの記憶がない。目を覚ましたら、布団に寝かされていた。目に映るものは見慣れた天井。心配そうにのぞき込んでくる母様の顔。手が温かい。母様がぎゅっと強く握っていてくれている。
 なにがあったのだろうか、桜田先生までいた。桜田と同じ真っ黒い髪を一つに束ねた、眼鏡の彼はいかにも医者って感じをしていた。やんわりと微笑む顔は、いつぞや見た桜田のものと少し似ていた。しかし、それ以外はまったく似ていない。顔の作りとか外見的なところはまったく。きっと桜田のそれはお母様に似たのだろう。他の、雰囲気などがどこか桜田に似ているものがある。親子なのだから、当たり前なのだろう。
 どうして自分が寝かされているのか、桜田先生がお見えになっているのかわからない奏は、体を起こそうと腕に力を入れた。しかし、どうしてかうまいこと体が起きない。いつの間に、こんなに体力がなくなったのだろう?奏は桜田先生と母様の助けがあって、やっと上半身を起こすことができた。いったい誰が着替えさせたのか、奏の服装は寝間着になっていた。
「気分はどうだい?」
「いつもと変わらないわ。私、いったいどうしたの?」
母様は少し、眉を寄せた。それは、いったいどういう意味なのだろう。ぼんやりした頭ではとうていわからなかった。今日はわからないことが多すぎる。
 ふと、もうどれだけ経ったのかわからないが、別れた桜田の後ろ姿を思い出した。
 橙色に染まった空と同じように、葉桜も柔らかい橙色に染まっていた。バイオリンの音は聞こえない。
 もう、聞くことはできないのだろうか?このまま終わってしまうのだろうか?
 それを見続けることは、とても辛かった。しかし、目が離せなくて。離してしまったら、消えてしまうんじゃないかと不安になった。どうして、そんなことを思うのだろう。桜の木が一瞬にして消えるなんてあり得ないのに。
 私は桜の木になにを見ているのだろう。
 そんなのわかりきってる。あそこは、私と桜田の空間、世界だった。だった…。きっと、もう過去のことなんだろう。認めたくはないけれど。
 すっと、視線を落とした。ぎゅっと布団を握りしめていた。
 さっきまで、桜田との時間こそが現実で、こっちが夢のように思っていたのに。
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