桜が散るその日
「俺は、仕事に戻りますよ」
背景と同化するように座っていた兄様が、すっと立ち上がった。距離が遠かったせいか、本当にいたということに気がつかなかった。
「倒れたと聞いて、てっきり危篤かと思いましたけど」
兄様は鼻で笑った。さすがにむっとする。兄様はいつでも嫌みくさい。こんな時で嫌みを言うなんてと、奏は兄様を睨みつける。
 いくら奏が睨みつけても、兄様は奏を視界に入れようとはしない。見る価値もないと言われているような気がして、もっと視線は鋭くなる。
「不吉なことを言うんじゃないよ」
「母様。俺は心配したんですよ」
嘘つき。奏はそっぽを向いた。昔の兄様なら心配してくれただろう。でも、今の兄様が心配するなんてあり得ない。今の兄様には奏なんて存在していないのだから。
 そうだと思うと、急に胸を締め付けられるような苦しさに襲われた。
 毒を吐くだけ吐いて兄様は立ち去ろうとした。最後の最後まで奏のことを見ようとはしなかった。
 兄様の、昔の兄様の面影がこんなにもなくなるなんて。
「あの子を嫌いにならないでおくれよ」
心配そうに兄様が去っていった廊下を見ている母様。奏はなにも答えられなかった。
 兄様を好きにはなれない。あんなに、意地悪なんだもの。でも、嫌いかと言われるとそうですなんて言えなくて。だから、嫌いにならないでなんて言われても、なんて答えればいいのかわからない。
 奏の中での兄様はどういう存在なのか、奏は兄様のことをどう思っているのかわからない。好きと嫌いの中間なんて、きっとないのだから。中間である方が酷い。普通なんて、なんとも思っていないのと同じ。いてもいなくても、同じことなんだ。
 兄様の中の奏という存在は、きっと中間なんだ。
 あの態度、言動。そうとしか思えない。だから、奏は兄様とうまくやっていけない。
 そう考えてしまうと、兄様ともう昔みたいに仲良くできないと自分で決めつけているみたいだ。ため息をつきたくなったが、今、部屋には桜田先生がいるので止める。
「そんな顔をしていると、治るものも治らなくなりますよ」
よほど暗い顔をしていたのだろう。桜田先生が眉を下げている。いつも穏やかに微笑んでいる桜田先生が、そんな顔をするのは珍しい。いつも安心させてくれる、そんな風に笑っているのに。
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