桜が散るその日
 部屋に一歩踏み入れた瞬間、崩れるように座り込んだ。ふすまを閉めていないから、背中に日の柔らかいぬくもりを感じた。
 手で両方の耳を塞ぎ、目をきつく閉じた。なにも見たくない、聞きたくない。叶わないとわかっている夢を見ていられるほど、強くない。
 それなのに今でも、彼が愛おしいと、恋しいと。こんなに、望んでる。
 それがいけないことなんて、思わなかった。思いたくなかった。
 現実はどこまでも無情。
 響くバイオリンの音。浮かぶ桜の情景。
 はっとして、奏は目を大きく開けた。あの情景を見てしまったら、彼を思い出すことになってしまう。思い出す?おかしな言い方だ。忘れてはいないのに。
 言うことを聞かない体を懸命に動かした。髪でも梳いて、考えを頭から消したかった。這うように化粧台にたどり着く。
 特に乱れが見えない髪のかんざしを抜く。パサッと長く黒くつやのある髪が落ちる。
 どうしてか、震えている手に持っているかんざしを置く。櫛をとるために。
 薄桃色のかんざし。この間、母様から唐突にいただいたもの。この前の催し物のの時につけなさいと言われた物だった。ガラスででもできているのか、透き通っている。奥の景色が見えるわけではないが、透明なかんざし。そういう石なのかガラスなのかは奏にはわからなかった。しかし、桜だということはわかった。

 -ほぅ。あれが噂の桜の君か。確かに桜の化身の様に美しい-

 いまだにかんざしを握っている手に力が入る。そっと顔を鏡に映す。
 桜の君?桜の化身だって?
 あざ笑うかのように奏は顔を歪めた。そこに、桜の化身なんかいなかった。
 桜の化身は彼のことを指す。桜は奏よりも彼の方が似合う。
 すっと、桜に目を移す。眩しいほど、桜は咲き誇っていた。あそこだけ、まるで違う世界に見える。それぐらい、あの桜は夢なのだ。現実ではない。
 今も耳に届く、綺麗で儚くて悲しくて、愛おしいバイオリンの音が。ずっと変わらない音。
 それなのに、奏の世界はたった数ヶ月で大きく変わってしまった。
 あの時聞いたこの曲は、こんなにも変わらないのに。
 今ならわかる。彼が言ったことも、あの情景の意味も。見た2人は、奏たちだった。
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