桜が散るその日
桜の君
十四回目の桜はもう散ってしまった。大きく空に挑むような枝には、今にも落ちそうな頼りのない葉がぶら下がっていた。風が吹き、今、数枚飛んでいった。
春はそれはそれは綺麗な花を咲かせるので趣があった。夏の葉桜は、春とは違う趣があった。しかし、秋の桜には趣なんてなかった。悲しい、寂しい。そんな負の言葉しか出てこない。奏は秋の桜が好きではなかった。気が滅入りそうだ。極力枝を見ないように努めてみる。
太い桜の幹。その前では彼がいつものようにバイオリンを奏でていた。桜田と言うだけあって、彼は本当にどんな桜でも似合って見える。奏はというと、いつもの特等席に座っていた。アンティーク調の椅子は、もっと古めかしくなっていた。それに座って彼のバイオリンに耳を傾けている姿は実に絵になる。
彼は、あの曲しか弾かない。奏のための曲を。
綺麗で、悲しい曲。奏はその曲が大好きで、苦手でもあった。
いつも浮かんでくる情景。決して触れあうことの出来ない二人。
奏はそれを見ることがとても怖かった。昔は目を閉じ、曲に入り込んでいた。しかし、今は目を開き桜田を見つめる。時折、癖で目を閉じてしまうことがある。そうなるともう苦しくて。
桜が舞っている。
実際、薄桃色の桜は舞っていなかった。もう、数ヶ月も前に、散ってしまったのだから。舞っているのは、桜の葉であった。
落葉。文字通り、葉は舞っていると言うより、落ちているに近い動きだった。それに、花びらとは違って、見た目はいいものではなかった。枯れ葉はどこまでも枯れ葉だった。華やかではなく、切ない。
しかし、彼の周りの葉は違っていた。葉が優雅に舞っていた。ひらひらと、まるで空から狂い咲きの桜の花びらが、舞い踊っているようだった。
そのあまりの美しさに、奏は淡く微笑んだ。
彼は、桜の化身か何かなのだろうか。それとも、桜に好かれているか。はたまた、桜の化身に好かれているか。
彼は、どんな桜でも美しく見せてくれる。彼の周りだけは違う世界があった。奏はいつでもその世界に見ほれるばかりだった。
すっと、桜田は目を開き、バイオリンを降ろす。演奏の終わりだ。彼はバイオリンを弾き終わったあとは決まってこうなる。ぼーっといったいなにを見ているのか、考えているのか、ただ立ち尽くす。違う世界に連れて行かれた魂を、体が帰還するのを待っているような。