桜が散るその日
 自分の部屋に戻って来た奏は、いそいそと着物を変える。着物の汚れを見せる、そんな恥を母様に見せられない。それに、見られてしまったら大変なことになる。
 脱いだ着物をいつもの場所に置く。明日の朝には、ここには綺麗になったこの着物が置いているのだろう。
 お手伝いの斉藤さんには、本当にお世話になっているな。奏は着物に袖を通しながら、少し苦笑いした。
 新しい着物を着付けながら、ずっと桜の木を見つめ続けた。
 もう枯れてしまって、寂しい桜。春にはあんなに美しく咲き誇っていたのに。夏には瑞々しい力を見せていたのに。
 聞こえる糸の震える音。ずっと聞いてきたバイオリンの音。どんどんうまくなっていく。しかし、変わることのない。
 戻って来てしまったら、触れることさえ出来ず、寄り添うことすら出来ない。
 変わって欲しくないのに、変わってしまうもの。
 変わって欲しいのに、変わらないもの。
 未来が怖い。先にある未来が不幸だろうと、幸福だろうと、進んでしまいたくない。
 止まっていたいのに。
「おやおや。お戻りですかぁ?」
竹箒を持って、いかにもお手伝いさんという格好をした人が、部屋の外に見えた。お手伝いさんと言っても、すぐに思い浮かぶようなおばさんではない。まだ、三十にもなっていないし、二十半ばでもない。つまり、まだ若い。しかし、行動がゆっくりでおばさん臭い。
 しかし、容姿は幼く可愛い。少し、どころではなく、勿体ない。
 ああ、こっちまで怠くなるそうなこの口調は斉藤さんだ。
「じゃあ、洗濯の時間ですねぇ。……よいしょっと」
庭でどうやら、落ち葉掃除をしていたらしい。努力むなしく、無数の枯れ葉が風で飛んでいるのが奏の目に映った。斉藤さんはそれを背に廊下に立っているから、見えていないし、気づいてもいない。きっとその方が斉藤さんの気持ち的にもいいのだと、奏は口を閉じて鏡と向き合った。髪を結わなくては。たまに、男の短い髪が羨ましく思える。
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