桜が散るその日
 奏は目一杯手を伸ばして、化粧道具を取っては、斉藤さんの前に次々と並べ置いていく。
 奏も立ち上がらずに行儀悪く手を伸ばして取っているのは、意地からくるものだろう。自分は主なのだから、あなたにそこまでのことはしないのという意地。我ながら訳がわからないと、奏はため息をついた。
 斉藤さんはというと、いつもと変わらないのんびりとした動作で一つ一つ手に取り確認し、自分の横へ置いていく。
 最後の一つを取った奏の腕はもう無理だと言うように、床から離れようとしなかった。
「主人に仕事をさせる召使いなんか、聞いたことがないわ」
思わず心で何回もつぶやいていたことが、言葉という形になって出てきてしまった。
 出ていたのなら仕方がない。奏は頬を膨らませ、怒ったようなそぶりをしてみる。彼女とはつきあいが長い。そんなこと全く効果がないことなんて、わかっていた。しかし、それをしないと気が済まない。とはいうものの、やったものの気なんか済むわけでもい。そもそも怒ってすらいない。
 寧ろ、そんなところが斉藤さんのいいところで、好きだった。
 堅苦しくお嬢様とお手伝いさんなんかやられたら、気が滅入ってしまう。きっと、顔を合わせるのも嫌になるし、母様に頼んですぐにやめさせてしまう。もしかしたら、奏の性格すら変わっていたかもしれない。そう思うと、ぞっとする反面、斉藤さんでよかったとほっとした。
 体のせいで、同い年の人やそれ以外の人とも関わりのない奏には、斉藤さんという存在が大きかった。思い過ごしだとしても、奏は斉藤さんのことを友人のように思っていた。
 遊び盛りの小さい頃は、斉藤さんと兄様と庭を駆け回った。誰にも言えない悩み事だって、斉藤さんに相談した。斉藤さんがいなかったら、きっとふさぎ込んでいただろう。
「さぁ、こちらを向いてく、おとなしくしていてくださいよぉ。動かれたら、お顔がお化けになりますからぁ」
それは嫌だなと、妙な緊張感に支配された。
 慣れた手つきで化粧品を開けては、奏の顔に塗っていく。まるで、絵を描かれている紙の気分。
 バイオリンの音が消えた。
「お嬢様は元がいいから、お化粧なんかしなくてもいいと思うのですよぉ」
「でも、母様の言いつけでしょ。それに、化粧は大人の女性のたしなみ。必要なことだわ」
「大人の女性…」
ふむっと、ため息にも似た息を吐き出し口を曲げ、不思議そうな変な顔をした斉藤さん。いったい、なにを意味するのやら。どうせ、奏はまだ子供ですよ、なんてちょっとぐさりとくる天然の辛口に決まっている。あの天然で、どんなに多くの人が傷ついたことか。被害者として一番にあげられるのは、兄様だろうな。

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