桜が散るその日
屋敷がここまで暗く冷たいと思ったのは初めてだった。父様が亡くなったときでさえ、暖かさがあった。なにも聞こえない。鳥の声も、虫の声も、人の声も、自らの鼓動も。
開け放たれたままの襖。珍しく礼儀の正しい斉藤さん。奏の斜め後ろでお辞儀をしていた。奏に向けられる三人の目。一つ目は複雑そうな。二つ目は感心したような。三つ目は気持ちの悪い、うわべだけの笑顔。お辞儀もせず、そこに立っていることだけで精一杯な桜の君。
夢は見るもの。現実は叩きつけられるもの。
夢は変えることが出来る。現実は変えることが出来ない。
夢は覚めることが出来る。現実は逃げることが出来ない。
信じていた未来が、全てが、音を立てて崩れていった。そんな気がした。
めまいがする。
「久しぶりですね。覚えていらっしゃいますか?朔(はじめ)明(あきら)と申します。朔財閥の。覚えていなくとも無理はありません。幼い頃に一度だけ、ほんの少しだけお会いになっただけですから」
朔財閥。朔明。不気味なまでに感情のない笑顔。
大人はあの笑顔に騙されていた。無邪気な笑顔に見えた感情のない笑顔。
奏はあの日聞いた、バイオリンの音を思い出した。
音であって曲でない。弾いているだけであって奏でていない。あの誰もが絶賛したバイオリンの音を。
「覚えでおりますわ。バイオリンを聞かせていただきました」
素晴らしいバイオリンといわなかったのは、それでも奏であったから。
しかし、笑顔でそんなことを言えたのは、きっと今の奏が奏でないから。
今の奏は、望月奏。望月家の娘。良家の娘。誰もが欲しがった、桜の君。
奏ではない、奏。
化粧というお面が必要だったのは、そのためだったのだろう。
そうか、あの鏡に映っていたのは桜の君。
はじめまして。
胸の中で奏は、桜の君に挨拶をした。
そして、桜の君はお嬢様の物腰で襖を閉めた。