桜が散るその日
「手が冷たいな」
目を擦るのを止めた彼の手は、奏の手を握っていた。手が冷たいと彼は言うけれど、彼の手だって暖かいとは絶対に言えない。
 彼を見るとまだ違和感があるのか、瞬きがいつもより数倍も多かった。いつも表情が乏しいから、それが珍しくて違和感があって面白かった。ずっと見ていられると思うほどだった。昔、珍しいからくりを見た。オルゴールというもので、仕組みはわからないのだけれど音の鳴るからくり。それを見たときと同じだった。
 目を離すことが出来ない。ずっとずっと見ていたい。
 彼は奏をそんな気持ちにしてくれる。
「心が暖かい、のか」
疑問符が見えるような彼のつぶやきは、奏がよく知っている言葉だった。しかし、彼の口から出てくるというのは違和感だらけで、おかしいと思った。おかしいのは奏の反応だった。違和感を感じておかしいと思うのなら、普通は首を傾げる。そのはずなのに、奏は心臓の音を速くしていた。嬉しいようは恥ずかしいようなくすぐったい気持ちで、混乱していた。
 それを悟られまいと、奏は触れていた手を離す。手には脈があって、心臓の速さと脈の速さは一緒で、そこから彼に悟られてしまう。
 しかし、どうしてあんなつぶやき一つでこんな気持ちになるのだろう。
 目の違和感がなくなった彼は、懲りもせずにまた空を見上げた。同じことをくり返すだろうと、奏はその横顔を見つめる。
 彼は、昔みたいに雪が降ったからといってすぐに追い返そうとしなくなった。あきらめかもしれない。けれど、奏はそばにいたいと思ってくれているのだ信じている。それが勘違いなのか、真実なのかなんてどうでも良かった。
 彼のそばにいられる。それが嬉しかった。それに、彼も嫌がっているわけではない。表情は乏しいが、嫌なら嫌だとはっきりとわかりやすい反応を示す。
 奏は再び彼に寄りかかる。そして、同じように空を見上げる。
 空は雲が覆って見ることが出来ない。奏はこの雲が好きではなかった。
 でも、どうしてだろう?彼がそばにいるだけで、それは少し違って見える。
 空を見上げながら、奏はふと思った。
 比喩で雨は涙。それならば、雪は何なのだろう。
 ゆっくりと、白い結晶は彼の方に舞い降りた。まるで引き寄せられているようだ。
 今度は目を擦らないで欲しい。擦る前に止められるように注意しなければいけないと、奏は彼を睨みつけるように見つめる。
 運良く、雪は目を避け目尻に落ちた。
 なんだ。雪も、涙じゃないか。
 奏はそっと、彼の目尻に留まっている雫を人差し指で拭った。

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