桜が散るその日
 奏は時折、彼が本当に噂の朔明なのかと疑いたくなった。桜の君の目の前に幾度も訪れる朔明と、噂の中の朔明は別人のようだった。
 噂の朔明とは、とても冷たい人だという。いや、人ではない。父親のいいなりの、意志のない操り人形。朔財閥の道具。心が冷め切って凍っている。
 これが陰で囁かれている朔明。
 一方で朔明のことをとても良い評価をする人もいる。寧ろ、そちらの数の方が多い。確かに、朔明には実力も才能もある。評価されるべきの人間で、きっと操り人形だという噂はただのひがみから来るものだとも思える。
 しかし、奏は彼を見たとき気持ち悪いと思った。これは人じゃないと思ってしまった。恐怖すら奏は感じた。
 そして、同じだと、近いものだと感じた。
「お体に障ります」
明は奏の隣に腰をかける。奏は無意識に少し距離を置いていた。
 ここにいる朔明は冷たくなんかなかった。傷ついた小鳥を看病する子供のような過保護すぎる優しさ、そのもののようだった。
 彼はいつでも桜の君の心配をしてくれる。本当に優しい青年だ。普通に見たらそう見えるのだろう。
 しかし、奏はそんな彼を見る度違和感を感じる。頭ではない、心が違うと叫ぶ。そして、その叫びは彼ばかりではなく、自分にも刺さっていることも気付いていた。
「もう、バイオリンはお弾きになりませんの?」
「飽きてしまわれたようなので」
明の声は実に残念そうな響きがあった。しかし、奏は心でその響きを否定していた。
「まぁ、一体誰がそのようなことを思うのです。これほど素晴らしい音、聴くことなど滅多にしか叶わないというのに」
桜の君はおかしそうに小さく笑う。その姿は本当に、良家の愛らしいお嬢様だった。今が冬なのが大変惜しまれるほど、桜が似合いそうだ。桜の君だと呼ばれるのが頷ける。
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