桜が散るその日
 顔を上げた奏が見たものは、大きな桜の木だった。これがいつも部屋で見ていた桜だと気づくのに時間はいらなかった。まるで、空に花を咲かせているような大きくて綺麗な桜。
 それに見ほれていたかったが、奏はバイオリンの音を辿ることを続けた。
 そうしていくと、足は桜の方に向かっていた。今日は風が弱いおかげか、花びらを散らすことをしていなかった。
 すぐそこに迫っているバイオリンの音。ついに手を桜に触れ、裸足で少し出ている太い根を踏みしめた奏。
 そして、ひょっこりと顔を反対側に覗かせる。
 風向きが変わる。ほのかに桜が舞う。
 真っ黒な髪の男の子。見慣れない洋服。凛とした顔。
 奏は、バイオリンの音もそうだがそれを奏でているその少年に見ほれていた。
 耳も目も彼を選んでいた。
 ふと、バイオリンの音がやむ。閉じられていた目がゆっくり開かれる。
 真っ黒い目。肌以外すべてが黒いその少年の視線に射貫かれた奏は、どきっと胸がなった。歳は、奏より少しばかり上ではないだろうか?
「あんた、だれ?」
バイオリンの音に劣らないぐらいに、澄んだ声。
 奏ははっと我に返った。しかし、言葉が見つからない。しばらく、目を泳がせる。
 そして、幹に手をしっかりつけて放った言葉はこんなものだった。
「ずいぶんと下手なバイオリン。昨日聴いたバイオリンは、もっと上手だったわ」
しまった。思わず、そんなことを口走ってしまった。
< 6 / 54 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop