聖戦物語 奇跡が紡ぐ序曲~overture~
「……いい加減にしてくれないと、こちらも迷惑なの。………悪いけれど、これ以上の無謀な戦闘は控えることにするわ」


 呟きにも似た言葉を零し、フィニアは詠唱を始める。瓶に詰めた薬の効果は即効性ではあるが、魔力が全快するにはまだ数十分の時間を要する。


 自身の状態と状況を鑑みて、あまり得策とは言い難いが戦略的離脱を選択したフィニアの目に迷いの色はない。一瞬の判断がどれほど後の試験に影響を与えるのか、何度も試験を受けてきた経験から学んでいるフィニアにとって、未知の力に守られている熊との対戦の続投はこれ以上無理だという思惟に取り憑かれるのは当然である。


 しかも、こういった相手に遭遇しながらも、おそらく彼女の属性ならば攻撃の手を止め、離脱に力を注げば回避可能だろうという自負が、彼女の熊に対する戦闘の手を止めるに充分な理由となった。


 視線を熊へと注意深く注ぎながら、懐に手を差し入れて赤い液体の入った瓶を取り出す。それを右手でぎゅっと握りしめ、フィニアは一度深く息を吸った後、思い切り熊の顔面に向けてそれを投げつける。


 瓶が割れた衝撃音に立て続けに響く、爆発音。熊の悶絶した咆哮を耳朶に捉えながら、フィニアは樹の幹を両足で蹴った。


 詠唱が発動し、自らの身体の周りを風が真綿でくるむように取り囲むような感覚を覚えた。ほぼ同時に、視界が煙が立ち込める場から高速に切り替わり、自分の体が風によって運ばれているのだと視覚が伝えてくる。


 だが、速さに特化させた詠唱を望んだ分、直線距離を飛行するしかなかったため、樹の枝などの障害物が体を掠めてかすり傷を増やしていく。しかし、匂いに敏感な野生動物の領域から素早く離脱をしたかったフィニアにとって、仕方ないと割り切る他のない傷ではある。


 詠唱時に練った魔力が尽きたのを感じ、再び詠唱を唱えて体を一瞬浮遊させて地に降り立つ。


「………ゴールまで、後どのくらいかしら」


 熊との戦闘を離脱したのはいいが、速攻の離脱を望んだ分、道の確認も出来なかったため、自分の居場所がどこなのかが分からない。それに、無闇に動いて再び熊に遭遇したりするのはごめんだ。同様に、熊と同じように強化された動物がいないとも限らない。


 道に迷った分、試験を受けるための場所を見過ごしてしまっている可能性も否定出来ないし、かと言って確認に戻るのも危険すぎることは重々承知済みである。
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