夏の日の終わりに
 その内容はすべて遠い昔の良き思い出と思われるものばかりだ。

 あの時ああだった。あの時はこうだった……

「もういいよ」

 そんな母親の言葉を僕は遮った。聞くに堪えない──

(まだ死んじゃいねえんだよ)

 おばさんは何も言わなかったが、恐らく同じことを考えていたと思う。


 長い時間が過ぎたように思え、ふと時計に目をやると時刻は午後11時を回ったところだ。あることに気づいた僕は、聞こえないだろうと思いながらも祖父に語りかけた。

「じいちゃん、あと一時間で七十三歳だな」

 はっとしたようにおばさんが顔を上げた。

 明日は祖父の誕生日だったのだ。誰も何も言わなかったが、僕は覚えていた。理子に渡すプレゼントの他に、僕は一本の酒を手にしていたのだ。なかなか希少価値のある酒だと聞いていた。

 渡したい。僕はこれを渡したかった。

 立ち上がったおばさんも祖父に覆いかぶさって語りかける。

「お父さん、明日誕生日だったね。頑張って誕生日迎えようね」

 果たして聞こえているのだろうか? いや──


 突然激しく連続した電子音を心拍計が鳴らす。それに呼応するように看護師が部屋に飛び込んできた。続いて医師も駆けつけ、激しい口調で看護師に指示を飛ばす。

 その後、母親に医師が質問をしている。僕は祖父に気を取られていてよく聞いていないが、たぶん延命処置についてだったと思う。

 母親はあくなき生への道を選択したようだ。

「じゃあ下がっててください。もっと離れて」

 厳しい口調だったが、しかし今度は部屋を出ろとは言わない。

 胸を激しく押して心臓マッサージを続ける看護師をも遠ざけると、医師は二つのパレットを両手に持った。

 電気ショック──

 まさかテレビでしか見たことのない延命治療が、目の前で祖父に施されるとは思ってもみなかった。胸にジェルが塗られ、細い電子音が高音域に上がる。

「1、2、3!」

 掛け声とともに祖父の胸が跳ね上がり、反動でベッドが軋む音を立てた。
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